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瞑想をする人

前回の記事では、呼吸タイプ=気質タイプ、4つそれぞれについて解説いたしました。

4つのタイプというのは、上図で言うと、

左上の「即応できる演奏家タイプ」

右上の「情熱的な指揮者タイプ」

右下の「準備万端な写真家タイプ」

左下の「冷静な画家タイプ」

これらのタイプのことでした。

4つのタイプを分けている横軸と縦軸は、それぞれ空間の捉え方の違い、時間の捉え方の違いを表しています。

そこで、今回の本題ですが、4つのタイプを分けている横軸と縦軸が交わっている点(原点)は、何を表しているのでしょうか。

原点は、ちょうど4つのタイプの真ん中にあたります。それが何を表しているのかについて今回は解説いたします。

結論から先に書いてしまいますと、原点で表されているのは…

「瞑想をする人」になります。

なぜそうなるのでしょうか。

まず、上図の横軸が表しているのは、空間の捉え方の違いです。

局所的⇔全体的

左に行くと空間を局所的に捉える傾向が強く、右に行くと空間を全体的に捉える傾向が強くなります。

空間を局所的に捉えるということは、空間を手作業をする場として捉えるということです。

空間を全体的に捉えるということは、空間を観察をする場として捉えるということです。

実は、これらの2つの捉え方以外の方法で捉えられる空間があります。

手作業をする場として捉えられるのでもなく、観察をする場として捉えられるのでもない。しかし、誰もが感覚的に捉えることができる空間。

それが、身体空間です。

身体空間とは「自己の身体に関して各人が意識している空間的な心象」のことです。

自分で自分の身体に対して感じている、大きさや形などのことだと思ってください。

たとえば、自分の肩幅がどのぐらいあるかを考える時に、わざわざメジャーで計ったり、鏡で自分の姿を確認したり、首をめぐらせて直接肩を見たりしなくても、左肩がここにあり、右肩がここにある、と何となくイメージすることができるのは、身体空間を認知できているからなのです。

以上のことから、人が認知している空間には次の3種類があることが分かります。

① 手作業をする場としての空間

② 観察をする場としての空間

③ 身体空間

普段の生活の中で人が意識しているのは、① 手作業をする場としての空間、② 観察をする場としての空間 のどちらかです。

③ 身体空間 を意識することは、日常生活ではほとんどありません。

意識をしていなくても雑踏のなかを人にぶつからずに歩くことができるのは、③ 身体空間 を無意識で認知しているからです。

また、③ 身体空間 が基盤にあるからこそ、① 手作業をする場としての空間、② 観察をする場としての空間 も認知することができます。

③ 身体空間 は普段は意識されることがほとんどなく、ほかの2種類の空間の基盤になっています。

したがって、上図の横軸において、原点の位置にあるのは「身体空間」だと考えることができます。

ところで、瞑想の技法の一つに、ボディスキャンというものがあります。これは、身体空間に意識を集中するという技法です。

たとえば、呼吸によるお腹や胸のふくらみ、へこみに意識を集中することで瞑想を深めるという技法です。

瞑想の目的の一つは、日常の意識から解放されることにあります。

身体空間に意識を集中することで、普段よく使っている2種類の空間への意識(手作業をする場への意識、観察をする場への意識)から解放されるというのが、ボディスキャン瞑想の考え方になります。

以上のことをまとめると、

・横軸から見た時に原点にあるのは、身体空間である

・身体空間へと意識を集中していくことは、ボディスキャンという瞑想の技法の1つである

ということになり、そして、それらが、上図の原点で表されているのが「瞑想をする人」である理由の一部になります。

今回は、横軸から見た原点、すなわち空間の捉え方の原点について解説いたしました。

 

前回は、下図の原点で表されているのが「瞑想をする人」である理由について、横軸の観点、すなわち空間の捉え方の観点から解説いたしました。

今回は、縦軸の観点、すなわち時間の捉え方の観点から解説いたします。

時間の観念は、人類の歴史とともに変遷してきました。

・原始の時代は、時間は無限に反復するものと捉えられていました。(万物は今あるままの姿で無限に反復される。)

・ヘレニズム文化では、時間は円環的なものと捉えられていました。(創造と破滅を繰り返す。)

・キリスト教では、時間には始まりと終わりがあると捉えられていました。(審判の日で終わる。)

そして…

・近代社会では、時間は計量的なものとなり、過去から未来へと整然と並べられるものと捉えられるようになりました。

時間の観念が変遷するにつれて、人類は自然状態から疎外されていきました。

特に「現在は過去と未来のあいだにあるもの」という時間の観念が、自我の意識を生み出し、自然状態からの隔絶を決定的なものにしました。

私たちが「自分は自分である」と感じるのが自我意識と呼ばれるものです。

その自我意識は原始の時代にはなかったもので、複雑化していく共同体の中で、時間の観念が制度化されていくにしたがって形成されていったものなのです。

このあたりは、ものすごくあっさりと書きましたが、『時間と自己』(木村敏著/中公新書)からの受け売りです。

個人が自己の一回限りの生と死を集団全体の生と死から区別することを学び、名前と職分を与えられて個人間の差異が自覚されるようになったとき、そこに未来と過去の観念が生まれ、以前と以後との不可逆な方向付けが始まる。

(『時間と自己』木村敏著/中公新書/p.169)

時間の誕生と個我の誕生とは厳密に同時的であって、両者はともに人間の自然状態からの疎外の症状とみなさなくてはならない。

(『時間と自己』木村敏著/中公新書/p.61)

ところで、瞑想の目的のひとつは、自我意識から解放されて、自然状態の意識に戻ることにあります。

そして、「現在は過去と未来のあいだにあるもの」という観念と自我意識とのあいだには深いつながりがあります。

ですので「現在は過去と未来のあいだにあるもの」という観念から解放されることもまた、瞑想の目的の一部と言えます。

ここで例の図の縦軸について見てみます。

継次的に時間を捉えるということは、未来から現在に向かって次々にやってくる出来事に対応しながら生きるということです。

同時的に時間を捉えるということは、過去の出来事を現在の出来事と照らし合わせながら生きるということです。

ふたつの時間の捉え方は、それぞれ未来という観念、過去という観念から生まれてきているのです。

未来と過去というふたつの観念から解放されるためには、「現在の状態をありのままに受け入れる」という瞑想の技法が有効になります。

その技法は未来にも過去にもどちらにも片寄らず、さらには、どちらの要素も含まないものですので、その瞑想技法を行なう場は、上図においては原点の位置になります。

原点の位置で、未来への不安からも過去の後悔からも切り離された、ありのままの現在の状態をありのままに受け入れることが、自我意識から解放される手助けとなるのです。

以上、上図の原点で表されているのが「瞑想をする人」である理由について、縦軸の観点、すなわち時間の捉え方の観点から解説いたしました。

具体的な瞑想のための呼吸法については、講座では上級編の内容にあたり、それなりに難しさがありますので、なかなかブログでは伝えられないように思います。

ほんのさわりだけ書きますと、瞑想のための呼吸法は「からだをほぐす呼吸法」の4つの呼吸法の真ん中にあります。

4つの気質タイプの真ん中に「瞑想をする人」がいたように、4つの呼吸法の真ん中には「瞑想のための呼吸法」があるというわけです。

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