とある頸髄損傷後遺症の方とのセッション
以前に担当させていただいていた患者様で、頸髄損傷の後遺症をお持ちの方がいらっしゃいました。
頸髄損傷というのは、何らかの外圧(交通事故や転落事故など)によって首の骨の中にある神経を傷めてしまうという状況です。
その後遺症というのは、身体のある箇所から下の神経が麻痺してしまい、皮膚感覚や関節の感覚が消失・減退したり、逆に痛みを感じやすくなったりする状況を指します。
さらには、動かすことが全くできなくなったり、動かせても動かしにくかったりする場合もあります。
その方は40代の男性で、在宅医療マッサージの患者様としては若い方でした。
施術開始当初は車椅子に乗られた状態でした。
身体を支えることができず、姿勢を保つことができないので専用のベルトで車椅子の背もたれに胴体を固定されていました。
ベルトを外すと上半身が前に倒れてしまい、太ももと胸が合わさった姿勢(椅子に座った状態で靴ひもを結ぶ時の姿勢)から動くことができない状態でした。
両脚には痙性麻痺が見られ、ご自身の意思では動かすことはできません。
両腕は腕を持ち上げることも難しく、かろうじて左の手首をピクリと動かすのが精いっぱいでした。
そういう状態でしたから、ご自身で車椅子を動かすことはできず、ちょっとした移動でもご家族の方にお願いするしかありませんでした。
ご本人の希望は、ずっと座っているとお尻が痛くなってくるので、ご自身の力で座り直しができるようになりたい、とのことでした。
神経細胞は再生ができないと言われています。(再生医療の研究は盛んに行われていて、神経細胞の再生についても研究が進んではいますが、まだ臨床現場で実用できる段階ではありません。)
頸髄損傷はその神経細胞が途中で断線してしまった状態です。
切れてしまった神経をつなぎ合わせることは、現在の医療ではまだ不可能です。
(ちなみに脳梗塞や脳出血などの場合は、大量の神経細胞のかたまりである脳の中で起こるので、損傷部位を迂回する回路をリハビリによって活性化することで、神経と筋肉のつながりが回復することがあります。)
ですので、頸髄損傷の後遺症の患者様に対して出来ることは、その時に残っている神経と筋肉の働きをフル活用して、日常生活で出来ることを増やしていくことです。
当然この方は、入院中に専門的なリハビリを受けてこられています。
それにも関わらず、この方はほとんど身動きが取れない状態です。
正攻法ではすぐに限界がくるのは明らかでした。
そこで、この方がまだお若いということもあったので、思い切って発想の転換をするところからスタートすることにしました。
その発想の転換とは、身体へと直接働きかけることから、言葉によって患者様の身体感覚を呼び覚ますことへの転換でした。
それはリハビリの手法からボディワークの手法への転換と言っても良いでしょう。
ボディワークの手法とは具体的には呼吸法指導を行うことで、それまで使えていなかった体幹部のインナーマッスルを活性化させるということです。
それに対してここで言うリハビリの手法とは、症状のある関節を直接的に動かしたり、表面にある筋肉に触れて直接的に刺激を与えたりすることを言います。
ボディワークの手法は言葉による指導がメインですので、患者様に理解力が求められます。
その点、この患者様はまだ40代とお若かったので、問題はありませんでした。
それよりも私が心配したのは、体幹部のインナーマッスルと脳とのあいだの神経伝達経路が残っているかどうかでした。
神経伝達経路が残っていて、単純にそれを活性化できていないだけであれば、ボディワークの手法(呼吸法指導)による回復の可能性があります。
しかし、逆に神経の伝達経路にすでにダメージがあったなら、回復の可能性はかなり低くなってしまいます。
初回の施術時にいわゆる腹式呼吸(息を吸いながらお腹を膨らませ、吐きながらへこませる呼吸)をしていただきました。
その段階では神経の伝達経路の状態がどうなっているのか、まだ分かりませんでしたが、まずは第一段階としてこの腹式呼吸に取り組んでいただくようにご指導いたしました。
そして、約2年の月日が流れました。
そのあいだ、直接的に関節を動かしたり、直接的に筋肉に刺激を与えたりすることと並行して、膨大な量の言葉で呼吸法をご指導いたしました。
ご本人の意欲も非常に高く、日々呼吸法トレーニングに取り組んでくださいました。
もともとご自身を前面にアピールする性格の方ではなかったので、どれだけのトレーニングをされたのか明確にはおっしゃらなかったのですが、かなりの努力をされているのが筋肉の張りにはっきりと表れていました。
施術開始当初は身体が前に倒れてしまうと、そのまま動けなくなってしまわれていましたが、ご自身の体幹の力と腕の力で上半身を起こすことが出来るまでになられました。
一度、固定ベルトを外していて、何かの拍子に車椅子から転げ落ちてしまったことがあったそうで、念のためにベルトはいつもされていましたが、ベルトがなくても座った姿勢を保つことができるようになられていました。
両肩の関節の動きがかなり回復されて、ご自身の力で腕を水平の高さまで上げられるまでになられました。
手首や指の力はほとんど入らない状態のままでしたが、体幹部がしっかりとされて、両肩の関節まわりの筋肉が増強したことで、車椅子をご自身の力で動かすことができるようになられました。
車輪の横についているリムを手首のあたりで両側から挟み込むことで、平坦で滑らかな床の上であれば前進・後退・右旋回・左旋回ができるようになられました。
当初の目標であったご自身での座り直しはさすがに難しいものでしたが、勢いをつけて力を入れることで少しずつお尻の位置をずらすということが可能になられました。
この方の場合、幸いなことに体幹部のインナーマッスルと脳のあいだにまだ神経伝達経路が残っていました。
ただ、それを使うという認識がご本人にもリハビリ担当者の方にもなかったため、活性化されないままだったのです。
障害を持たない健常者の場合でもインナーマッスルを使うという認識を持っていない方は多くいらっしゃいます。
それはつまり、身動き一つ取れなかった方が、車椅子を自力で移動できるまでに回復された、その力を使っていないということになります。
その分の負担は、外側にある大きな筋肉に頼らざるを得ません。
身体を支えるために過度に疲労した外側にある大きな筋肉は、肩こりや腰痛といった不快感を生み出します。
呼吸法によってインナーマッスルを鍛えることは、身体を内側から支える力を増強することになり、外側にある大きな筋肉の負担を減らして、肩こり・腰痛を減らすことにつながるのです。
↑太陰タイプの呼吸イメージ。この患者様はこのタイプでした。
↑剣状突起の位置