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呼吸法は例外的な健康法

 論語の一節に、「学びて思はざれば則ち罔(くら) し、思ひて学ばざれば則ち殆(あやう) し」というのがありまして、現代語訳としては「学んで、その学びを自分の考えに落とさなければ、身につくことはありません。また、自分で考えるだけで人から学ぼうとしなければ、考えが凝り固まってしまい危険です」ということのようです。

 私が常々気を付けているのは、後半部分の「自分で考えるだけで人から学ぼうとしなければ、考えが凝り固まってしまい危険です」というところで、これを一言で言うと、「ひとりよがりにならないように気を付けろ」と言うことだと思います。

 それで、前回の記事の最後に書いたことにつながるのですが、なぜ呼吸法(四象調息法)だけが私のセルフケア法のなかで例外的に、患者様にお伝えすることができるのか、ということについてこれから書いてみたいと思います。

 陀羅尼助丸を飲んだり、お白湯を飲んだり、お風呂に入ったり、「山根式棒セルフマッサージ」をしたりすることで、私は自分の体調管理、セルフケアをしているわけですが、それらはあくまでも、自分に対してやってみたらいいんじゃないかという直感から行なっています。

 もちろん、陀羅尼助丸は第3類医薬品ですし、お白湯健康法は古くから一般的に認知されている健康法ですので、私の直感とは関係なく、体調管理に有効に働く可能性が高いわけですが、数多ある体調管理法、セルフケア法のなかから、それらの体調管理法を選択したのは私の直感からだということです。

 自分に対しては効いた薬や健康法であっても、それが他人に効くとは限らないわけでして、似たような症状だったとしても、誰にでも陀羅尼助丸が効くとは限らないわけです。

 それを「ひとりよがりに」他人にすすめることは、控えるようにしています。せいぜい、こんな薬があります、こんな健康法があります、と紹介させていただく程度にとどめるようにしています。

 陀羅尼助丸やお白湯健康法といった身体に負担が少ないと言われているものですらそうしているのですから、「山根式棒セルフマッサージ」となるとなおさらのことです。自分にとっては、「一生もの」だったとしても、他人にとってはそうとは限りませんし、非常に強い刺激を生み出すものですので、場合によっては害になることだってあり得るのです。

 ひるがえって、呼吸法(四象調息法)の場合はどうかと言うと、すでに過去の記事でも何度か触れましたが、私ひとりの枠を超えて、他人の身体傾向にまで対応できるセルフケア法になっています。

 それは、施術現場での検証をすでに終えているということで、「山根式棒セルフマッサージ」がまだ約20人ほどの方にしか試してもらっておらず、その少ない人数のなかでも、どういった方には合って、どういった方には合わないのかという検証作業がまるで進んでいないのとは対照的であるということです。

 ・・・と、ここまでは、以前にも書いたことで、それに加えて言いたいことが本題になるのですが、もともと、と言うことはつまり私の個人的な検証作業の有無とは無関係に、四象調息法に限らず呼吸法一般が、数多ある健康法のなかで特別なもの、例外的なものなのではないか、と思っています。

 気功やヨーガや禅などに、「調心、調息、調身」という要素がありまして、それぞれが「心をととのえる、息をととのえる、身体をととのえる」という意味なんですが、3つの要素すべてが大事なんですが、この調息という要素がほかの2つの要素に対して、特別な位置、例外的な位置にあるのではないかと思っています。

 抽象的な言い方になりますが、心と身体をつないでいるのが、呼吸なんじゃないかと考えています。

 身体は3次元的な物体としてありますが、心というのは物体としては取り扱えないものです。

 神経作用の機能的側面として心をとらえることもできると思います。

 呼吸は身体的な機能ですが、神経作用に対して影響を与えることができます。

 たとえば、ゆったりとした呼吸(その定義には一言あるのですが)をすると、副交感神経が優位になり、心がリラックスできます。

 身体も大事、心も大事、呼吸も大事なんですが、呼吸だけは行為、行動です。

 身体と心をつなぐ、具体的な行為、行動が呼吸です。

 そういった意味で、「調心、調息、調身」と並べたときに、調息だけが特別な位置、例外的な位置にあるように思えるのです。

 さらに、気功やヨーガや禅などの健康法に関心のある方であれば別ですが、身体と心に対する関心ほどには、一般的に呼吸に対する関心は高くないです。

 そういった意味からも、調息という考え方にはスポットライトを当てるべきだと思うのです。

 また、これは同じことの繰り返しになるかもしれませんが、肺だけが内臓のなかで意識でコントロールできるということも、呼吸法を特別なものととらえる理由のひとつです。

 陀羅尼助丸やお白湯を飲むのは、意識でコントロールした行為ですが、飲んだ後の胃腸の働きに関しては、意識でどうこうできるものではありません。

 かと言って、手足の筋肉ほどには意識の管理下に置けるわけでもないのが、肺の機能、呼吸です。

 1日のなかで、一度も呼吸に意識を向けなかったからと言って、生きていけないわけではありません。

 身体のなかで、意識でコントロールできるけれども、別にコントロールしなくても生きていけるという部分は、深層筋などほかにもありますが、肺(正確に言うと、呼吸筋)ほどあからさまにそうである部分は、ほかにはありません。

 むしろ、コントロールしようという意志を持つことで、かえって呼吸しづらくなることさえあります。

 あとは、どんな人でも四六時中呼吸はしている、ということも重要です。

 重いものを持ち上げるときでも、パソコン作業をしているときでも、寝ているときでも、誰もが生きているかぎり呼吸をしています。

 その呼吸をととのえるということは、やはり特別なことのように思えます。

 おおむね以上のことが、私が呼吸法が特別で例外的な健康法だと思う理由です。

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